塚田次郎著

「日報を読んで(4)」(1999.7.20)


脳死患者の人権配慮を

医療に関する記事は、毎日のように紙面をにぎわしている。最近では、脳死からの臓器移植や生体肝移植などが、先端医療の一つとして大きな注目を集めた。

これらは日本では欧米に比べて立ち遅れていて、新しい試みであるため、非常に大きなニュース価値があるのであろう。新聞に限らずマスコミで、毎日のように大々的に報道されていた様子は記憶に新しい。でもその報道姿勢には首を傾げざるを得なかった。

「日本初の脳死からの移植」といっても、スポーツ選手が日本新記録を樹立したのとは違う。お祭事ではない。「ワイドショー」的に軽薄に取り上げるべきものではない。

何故なら、そこには「新しい(または継続できた)生」があると同時に、「継続できなかった生」、「新たにおとずれた死」があるのだから。生前に臓器移植を申し出た本人の意思と、悲しみの中にあっても本人の意向を尊重しようと苦悩する家族の心情とを思うと、マスコミも私たちも冷静に見つめ、最大限の感謝の気持ちを持って接すべきである。

日本の臓器移植は、その第1例の心臓移植が数々の疑惑に包まれていたという不幸な歴史を持っている。死の判定や移植の必要性が適正、公正になされているか、脳死とされた患者への医療が適切に行われたかなどをきちんと検証しなければならない。

そのため、こうした新しい医療は密室性を排して公開され、透明性が確保される必要がある。と同時に、特に脳死患者側のプライバシーはきちんと保護されなければならない。

例えば、信州大学で移植を待つ4ヶ月女児に提供された肝臓が、組織検査で移植に適さないことが分かり、手術が断念された。この際大学側から、提供された肝臓が組織検査で予想以上にある種の変化が強く「移植すれば女児の状態をより悪くすると判断した」(6月25日付)と説明され、具体的な肝臓の病名を用いて報じている。これなどは移植を申し出た方の生活歴が誤って推測されるような表現であり、果たしてそこまでの詳しい報道が必要だったのだろうか。

医療機関側が移植の過程での事実をきちんを公表することと、マスコミがそれらを一般の人に広く報道することはイコールではない。臓器を提供する側の方々の人権や感情にも十分配慮しながらの、より慎重な報道が求められる。そしてそれなくしては、確固たる移植医療の推進・確立はありえないだろう。

上越地方では、2人の方が重い病気のため、移植を受けることを希望している。これらの方を応援しようと、地元高校生らが今月23日にチャリティーストリートライブを予定している(16日付)。温かい支援の輪が大きく広がっている様子が読み取れる。と同時に、報道する側にも、それらを温かく見守り、大切にしている姿勢が感じられ、うれしい。地域の中で、心の通いあった報道といえよう。