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2006年08月24日

若月俊一先生

 若月俊一先生をご存じでしょうか。医療関係者にとってはビッグネームなのですが、一般の方にはあまりなじみがないことでしょう。

 長野県にある佐久総合病院の院長を長くされたこられた方で、「農村医療」の創始者です。戦前の反戦運動に加わり、その経験から農村で、医療に恵まれない人たちの中に入っていって医師としての使命を果たそうとされました。

 日本が戦争中に、反戦運動を行っていたのですから、ものすごい根性をもっていたのでしょう。非国民とされれば拷問され、ときに死を覚悟しなければいけない時代だったのですから。

 若月先生の好きな言葉に「ヴ・ナロード」というのがあるそうです(確かそんなふうに記憶しています)。これはロシア革命の時の合い言葉で、「民衆の中へ」という意味があるのだそうです。権力に対抗し、新しい政権を作ろうとしても、ただ机上の論議をしていてはいけない、あるいは都市の中で物事を進めようとしてもうまくいかない。国を作っている根本の農村に出かけていって、農民と対話し、農民とともに活動することがもっとも大切だ・・そんな意味の込められた言葉だったと理解しています。

 先生は文字通り、農村のまっただ中の病院に赴きました。そこでもただ病院で患者さんを待っているだけの医療ではだめで、農民の中に訪問し、農村の生活環境から変えていく必要があることを説いていきました。そうして、農村における医療を作り上げていったのでした。

 私は医学生のころ、若月先生に直接お会いし、お話をする機会がありました。一つは、佐久総合病院で毎年夏に開かれる農村医学会に出かけていった時です。貧乏学生たちが集まって、お祭り気分で出かけていったのを、今でも覚えています。

 もう一つは、私の大学にお呼びし、討論会を開いた時です。当時、日本の地域医療に非常に熱心な方々を何人かお呼びし、そこにまだ学生である私も加わってパネルディスカッションを行いました。その運営は、学生が自主的に行い、大学全体も巻き込んで、これからの大学(自治医大)のあり方、医師になってからどう地域医療と向き合っていったら良いか、など、熱い議論をかわした覚えがあります。

 当時私はまだ医学部の2年生で19歳。そんな若僧を相手に、丁寧な議論をして下さったことを鮮明に覚えています。私にとって、医師としての進むべき道を示してくれた、そんなふうにも思っています。

 そんな私も今は49歳。ちょうど30年がたったのですね。早いものです。熱く燃えた青春時代でしたが、いつのまにか違う方向に進んできてしまったかもしれません。現実の中で、暑い魂はしだいに冷やされてしまったのでしょうか。あるいは、早くに燃え尽きてしまったのでしょうか。

 若月俊一先生は、先日お亡くなりになられました。享年96歳。生涯現役で医療改革の活動に身を捧げてこられました。年齢だけでは、今の私にもあと40数年あることになります。

 若かりしころの志をもう一度見つめ直し、私のできること、足りないこと、すべきことを、また見直してみたいと思ったしだいです。若月先生の足下にも及びませんが、「生涯小児科医」として仕事をしていくことが私の進むべき道なのでしょう。まだまだ頑張らなくてはいけませんね。

投稿者 tsukada : 2006年08月24日 21:18