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2006年10月26日

成績偽装

 昨日の「院長ブログ」で触れましたが、高校の履修不足問題はまたたく間に全国に広がりました。いくつかの高校が「ズル」をしていたといった単発的な問題ではありません。数年前から、日本中のあちこちで同じことをしていました。そこには構造的な問題があると考えるべきです。

 教育委員会や文部科学省の指導監督の不十分さがあげられます。報告であがってきたものを、書類上のチェックだけの形式的に見ているだけだったのではないでしょうか。「教育は現場でおきている」・・子どもたちが教室でどんなふうに学んでいるか、どんな様子をしているかを丁寧に見ることなど、なかったのでしょう。

 先日来問題になっている「いじめ」や「自殺」の問題も同じです。子どもたちと実際に関わる中でしか見えてこないものはたくさんあることでしょう。そして、そこにこそ、とても重要な教育の課題があることでしょう。

 文部科学省が作っている「教育要綱」の中身はどうなんでしょう。「世界史」を必須教科とし、「日本史」と「地理」はその一方だけを選択すればいいというシステムもきちんと検証されているのでしょうか。これからの国際化社会で生きていくために、「世界の中で通用する若者を作ろう」という理念(?)は分からなくはありませんが、それが「世界史必須」にどうつながるのか。物事を短絡化していませんか?

 最近の議論では、小学校で英語を必修にしようとしているのだとか。言葉としての英語を話せたりするだけであれば、早いにこしたことはないのかもしれません。でも、日本語をきちんと理解して話したり、書いたりすることができない段階で、英語を教えることに、実際の意味はどれくらいあるのでしょう。それよりも、もっと自分の言葉で、自分の意見や感想を話すことができるような能力を養うこともが、「生きる」という意味ではもっともっと大切なことだと思うのですが。

 ただ先生の話を聞いているだけの授業、ただ国も決めたカリキュラムにのっとって、教科書を逐一学んでいくだけの授業では、自主性は育っていくことは望めないでしょう。疑問に思ったことや、自分なりに考えたことを伝えようとしても、授業のじゃまになるからと取り合ってもらえなかったり、しまいには「授業の妨害者」と見なされることもあるような教育システムなのですから。

 社会科については、個人的には「現代史」を新たに作って、それを必須にすべきだと思っています。歴史の授業というと、大昔の話から始まり、次第に現代になっていきます。人類や日本の初期のことを知ることが不要だとはいいませんが、それよりも近年の歴史の方がより今の私たちに重要なのではないかと思うのです。日本史でいえば昭和以降でしょうか。あるいは20世紀以降で、第一次世界大戦の前あたりから始まるのはどうでしょう。そこから始めることで、現代の社会の成り立ちを知ることができるし、これからの方向も見えてくるように思うのです。

 もちろん今の教科でも、最終的にはそこまで行くことになっているのですが、実際には戦後くらいになると、もう時間切れ間近になっていることも多いですよね。一番今の私たちに直接関係のある現代史をきちんと学んでいる高校生は、あまりいないのではないかと思っています。

 そして、現場の高校の対応もめちゃくちゃです。生徒のことを思って・・などという発言が今日も続きましたが、そんな言い訳はもう聞きたくないです。今回の問題は現場で裁量できる範囲を大きく逸脱してます。そして、嘘の報告をしたり、成績表や内申書を作成していた行為は「公文書偽造」にあたるのではないですか? それって、立派な犯罪行為でしょ。なんで教師たちが平気でできちゃうのか、不思議で仕方ありません。

 もしかしたら、今回の未履修教科の成績以外でも、点数の水増しとか付け替えなど、当たり前のようにやっているのでは? そんな疑問すらもってしまいます。そうなると、高校が作っている成績関係の書類は、全く信用するにあたらない、などという結果になりかねません。それは自分で自分の首を絞めるです。信頼関係を自ら破壊していることです。

 生徒たちに嘘をつくこと、ズルをしてもいいんだということを教えていたことにもなります。そんな程度の教育者だったんですね。そんな程度の教育しか、日本では提供できていなかったんですね。残念としかいいようがありません。

 同じ社会科の中に「倫理」があります。哲学や宗教など、心の問題も扱っていますが、それはただ紙に書かれた知識を生徒に伝えてるだけなのですか? 社会科教師が「人としての生き方はこうあるべし」などと教えながら、一方では偽装工作をしている・・。生徒に何を教えたいのですか? 生きた知識にはならないんですね。それとも、受験に必要ないからといって、「倫理」を教えることを最初から放棄してしまっているのかもしれません。

 今回の事件の根本には、日本の教育だけではなく、日本人としての生き方や考え方が大きく横たわっています。とりあえず受験生の中で卒業できないかもしれないという問題は最優先で対応しなくてはいけませんが、それだけ終わりにすることなく、教育のあり方、日本の社会の問題などについても、きちんと考えていく必要があると思っています。

 ・・もっとも、日本人がそういったものの見方や考え方がきちんとできるようなら、今回のようなことが全国でおきてくるなんてことはなかったはずです。それができないのが日本人。悲しい気持ちになってしまいます。

【追伸】このHPに設置してあるカウンターが、今日400,000を超えました。トップのページへのアクセスをカウントしていますので、実際のご利用ももっと多いのですが、この数字を見ると、多くの方にお越しいただいていることを実感します。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

投稿者 tsukada : 2006年10月26日 23:18