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2007年04月25日
ルーシーさん事件
昨日、東京地裁で出された「ルーシーさん事件」の判決については、びっくりされた方が多かったことでしょう。私もその一人です。
判決は求刑通り「無期懲役」ではありますが、ほかの容疑に対して出されたもので、ルーシーさん殺害に関しては「無罪」だというのです。限りなく灰色に近く、「殺害や死体遺棄に関係していた疑いは否定できない」と言っているにもかかわらずです。
判決文にあるように、この事件では物的証拠はないようです。状況証拠を積み上げていって、彼しか殺害犯人はいないはずという推測をしているのが、検察側の主張です。しかし、裁判所はそれを採用しませんでした。そもそも被疑者が犯行を行ったかどうかを判断できる材料がないから、というのです。
裁判には「疑わしきは被告の利益に」という原則があります。客観的な証拠によってきちんと犯罪が立証できたときにだけ、有罪にするというものです。あやふやなときに、簡単に結論づけてはいけない、ということなのでしょう。
日本の捜査や裁判では、自供が大切だとされているようです。物証があれば容易に犯行を推定することができますが、それがなくても「犯人にしか知り得ないこと」を自ら話をすることが、大きな証拠とされてきました。しかし、それが「冤罪(えんざい)」を産む土壌になっています。
警察や検察は自供があれば起訴でき、有罪に持ち込めるはず、という浅はかな考えをしがちになってはいなかったでしょうか。初動捜査が最も重要だといわれながら、犯人はきっとこの人だろうなどという安易な思いこみがあると、地道が捜査がおろそかになってしまうことは、十分に「推認」できることです。
自供を得るために、別件で逮捕してしまうことは日常的に行われているようです(法律に違反する捜査方法です)。長時間にわたって取り調べを行ったり、暴力的な扱いをしたりということも、行われているようです。
やはり物理的な証拠は、もっとも重要になるもの。裁判所がルーシーさん殺害について無罪にせざるをえなかったのは、やむを得なかったことなのかもしれません。
そして問題になるのは捜査方法です。この犯人は、そうとう以前から強姦事件などをおこしていました。被害者の家族からは、きちんと捜査をしてほしいという要望が警察に以前から出されています。その時点できちんと捜査し、逮捕し、起訴できていれば、そして有罪に持ち込むことができたのなら、ルーシーさんは殺されずにすんだはずです。
また、今回の起訴にあたっても、きちんとした証拠を提出できていれば、ルーシーさん事件についても有罪にすることができたはず。その意味では、ご家族の方が記者会見でお話をされていましたが、検察の失敗だというほかありません。
それにしても、いったい誰がルーシーさんを殺し、遺体をバラバラにして捨てたのか。誰もそれに答えてくれません。
日本が安全だという思いがルーシーさんやそのご家族にはあったことでしょう。いわば日本という国を日本人を信用していてくれたというのに、ひどい犯罪にあい、命を失ってしまいました。今でも、その犯人を特定し、断罪することもできていません。そう思うと、日本人の一人として、申し訳ない気持ちです。
先日の銃を使った犯行といい、日本という社会がけっして安全とは言えないのだということを実感しています。それを正していくためにも、一つ一つの事件を丁寧に解決していくことが必要です。
投稿者 tsukada : 2007年04月25日 23:59