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2007年06月30日
潜在的需要
昨日のお客さまは兵庫県から来られました。ほとんど日帰りの強行軍。ほんとうにご苦労様でした。
県庁の少子化対策を担当されている方だそうです。先日に産経新聞の記事を見て、ぜひ見学したというお申し出でした。朝の受け入れから始まり、子どもたちの保育の様子、診察の風景など、わたぼうし病児保育室の全ても見てもらったといっていいかと思います。
途中には市役所の担当課も訪問し、市の方との意見交換もされました。そこでもまたいろんなお話が出ていたようです。
県として病児保育(病後児保育)を推進して行くにはどうすれば良いか、というのがメインテーマのようです。なかなか難しい課題です。
国(厚生労働省)からは病後児保育事業の要綱などが出されていますが、実際に行う自治体の取り組みはそうとう“温度差”があります。積極的に行っているところもある一方で、将来的にも取り組むつもりのないところも。あるいは取り組みたくても予算やノウハウがなく、実行できないところもあるようです。
実際に行う事業者(とくに病児保育の場合は小児科医や、小児科のある病院)のとらえ方も、千差万別です。少子化対策として「やむをえない」として取り組んでいるところもあります。残念ながら、いまだにその必要性を理解していただけず、あるいは「そういったものをすることは、労働環境充実の妨げになるので、行ってはいけない」とまで言うところもあります。
そんな中でも、少しずつ病児保育(病後児保育)に取り組もうという自治体は小児科医(医療機関)が増えてきているのは確かです(その数はまだまだ少ないですが)。実際に行おうという段階で問題になるのは、そのハードルの高さです。
経営的に成り立つことはなく、自治体の補助は必須です(現在行っているところも、その額が十分ではないとして問題にされています)。施設・設備の点でも、お金を別にしても、都会などではそれだけのスペースがなかなかとれないという問題もあります。そして、新たに保育士を雇用しなくてはいけません。医療機関と保育士という職種は、通常一緒に仕事をすることはないので、その点での“溝”は大きいかもしれません。
県という立場からは、こういった諸条件の違いを考慮しながら、病児保育を積極的に行おうとする市町村や医療機関を積極的に後押しすることが求められます。実施までにいくつも存在しているハードルを低くしたり、なくしたりすることで、県内のどこに住んでいても、この福祉サービスを受けられるようにすることが、大きな目標になるでしょう。
そんな意味では、お越しいただいて県庁マンの方にいろいろとアドバイスをしたかったのですが、残念ながら行政についての知恵が私にはありません。実際の様子を見てはもらいましたが、そこから「どこででも実際できるモデル」を作るのは、けっこう難しそうです。何しろ、当院のわたぼうし病児保育室は全国の中でも例外的な施設になりつつあるからです。
急性期の病児を預かるために、事実上「定員」をなくし、求められれば必ずお預かりしています(誤解のないよう付け加えておきますが、児童福祉法に基づく「認定外保育施設」の基準はクリアーしていますので、厳格な意味での「定員」はあります)。予約不要(大半の病児は、急に発病しているわけですから、前日までに予約などできるはずがありません)。登園したあとの急病による「飛び込み」(途中入室)も拒みません。
ここ6年間にのべ6,000名の子どもたちをお預かりしていますが、それ以外にお断りしたお子さんは一人もいません。そうすることで、親御さんからの信頼もいただき、子育て支援を通して、実際に親御さん(そしてその大半はお母さん方)の就労を力強く後押しすることができてきたものと思っています。
昨日、県庁の方とお話しするなかで、私は「わたぼうし病児保育室は一つの社会実験を行っているのかもしれない」というお話をさせていただきました。病児保育の必要性については以前から考えられてきたわけですが、それがどれくらい強いものなのか、どれくらいまで高まっていくのか、その数量的な予測はまだ誰にも分かりません。
私たちが始めた当初は利用数は非常に少なかったのですが、先に述べたような「使い勝っての良い病児保育室」を作ってくる中で、登録者数や利用者数は確実に増えてきています。その勢いは、私たちが想像をしていた以上のものがあります。どこかで頭打ちになるかもしれませんが、それがいつ、どの程度で訪れるか、全く見当が付きません。
病児保育に対する需要(ニーズ)は、とてつもなく大きなものがあるというのは、今私たちがわたぼうし病児保育室の実践の中で実感していることです。潜在的な需要が、条件が整備されることでどんどんと顕在化してきているようです。
日本全体を見れば、核家族の多い都内などではもっとニーズは高いかもしれません。地方の小都市で、一小児科開業医が、公的な支援のない中で取り組んでいる病児保育が、どれくらいの広がりにまで発展していくか。それはひとえに、親御さんたちの需要がほんとうにどれくらいあるかということによるのだと思います。
わたぼうし病児保育室の様子を見て、もしかしたら「こんなのはなかなかできない」と感想を持たれたかもしれません。でも、同じことはできなくても、同じ方向を向いて仕事を進めることはできます。ぜひ兵庫県の中で、この病児保育事業が着実に進んでいくよう、知恵と予算を出してくださることを願っています。兵庫県民の親御さんにかわって、切にお願い申し上げます。
投稿者 tsukada : 21:57
2007年06月28日
反響
先日の産経新聞に、当院が行っている病児保育についての記事が掲載されましたが、その反響が少しずつ手元に届いています。
見学に来たいというお申し出もありました。兵庫県の方で、さっそく明日お越しになられます。おそらく今頃は夜行列車の中。新聞記事掲載から数日での行動ですので、よっぽど興味を持たれたことでしょう。
その方は明日の早朝に当地に到着。わたぼうし病児保育室の1日の流れを、朝の受け入れの様子から全部見てもらうことになっています。
百聞は一見にしかず。記事の内容は、記者の目を通して書かれたものです。ご自身の目で見て、直接体験することで、大きな成果が得られることでしょう。
私たちにとっても、病児保育のどの点に対して興味をもっているのか、ぜひ聞かせていただきたいと思っています。あるいは、外から見た目で、わたぼうし病児保育室の行っている病児保育について、忌憚(きたん)のない意見をお伺いすることができれば、それをさらに生かすことができることでしょう。
明日のことを考えるとちょっとドキドキ。でも、楽しみです。
投稿者 tsukada : 23:59
2007年06月27日
“今日”を助ける
昨日の産経新聞に掲載された「病児保育」についての記事はご覧いただけたでしょうか。当院のわたぼうし病児保育室を取材したものをベースに、国の動き、他の例も参考にしながら、きっちりとまとめ上げていただいきました。
わたぼうし病児保育室はときどき取材を受けています。新聞、テレビなどです。当院が病児保育を始めて6年がたちますが、当初は“物珍しさ”もあったのでしょう。こんなユニークな子育て支援をしているよ、といった内容が多かったようです。
今回の記事は、これまでのものとは質的にずいぶん変わったように思います。それはなぜ私たちが「病後児保育」ではなく「病児保育」をしているのか、をしっかりととらえてもらっているからです。
言葉の遊びのように感じるかもしれませんが、そうではありません。2つはずいぶんその内容が違っていますし、保育の体制も格段に違うものです。
「病後児保育」というのは病気の回復期にある子の保育をさします。それに対して「病児保育」とは、急性期の一番具合の悪い時の保育を意味します。(広い意味でそれら全部をまとめて「病児保育」という言い方をする場合もありますが、国が作ったモデル事業は「病後児保育」から始まっていて、急性期の「病児保育」は例外として扱われてきたという経過もあるため、一般には「病児保育」という言葉を狭い意味で使う場合が多いようです。)
私たちは病後児保育については、それほど重要だとは思っていません。もちろんご家庭によっては必要性があるでしょうし、求めがあれば応じていますので、排除しているわけではありません。でも、多くの場合、子どもの具合が良くなってきている時には、両親の間でどちらかが仕事の休みを容易に取ることができるようになっているでしょうし、遠くにいる祖父母などの応援も得やすくなっているはず。普段通っている保育園でも、看護師がいるなど条件が整えば、形式的に病後児保育を行っていなくても、その子独自の保育プログラムを組むことで、預かってもらえる可能性もあります。
つまり、病後児保育の必要性は一般的には薄いものになってくるでしょう。
逆に急性期のお子さんを預かる「病児保育」の必要性は、より大きなものがあります。まずもって子どもは急に病気になるものです。子どもの病気の大半は感染症ですし、そのまた大半は急性です。夜中に急に熱を出したり、休日に具合が悪くなれば、翌朝の急な対応が必要になります。
そんな時、門戸を大きく開いている病児保育室が近くにあればどれほど助かるかは、私自身の子育て経験からも、そして小児科医として毎日、病気の子どもたちの親御さんを見守っている立場からも、よく理解できます。
「子どもが病気の時くらい、仕事を休め」と言われることもあります・・とくに小児科医から(-_-)。それができるようであれば、誰も困りません。子どもの具合が悪いときに平気でいられる親はいないのですから。休めないから悩んでいる。そしてその重荷は、今の日本ではどうしても母親が一手に引き受けざるをえません。
子どもが病気になったときに容易に休暇がとれるような制度がないからいけないのだ、病児保育(病後児保育)をすることで、看護休暇制度の導入や社会制度の充実を遅らせる、必要悪であり、いずれはいらなくならなければいけないものだ----そんな意見も散見されます。けっこう小児科医の中では強いものがありますし、もしかしたら病後児保育に携わっている人たちの中にもそうとう根強くあるのかもしれない、とも感じています。
確かに一理あります。社会制度の発展を阻害しないように注意をしていく必要もあるでしょう。でも、そういっている人たちが、企業に制度の導入を働きかけたり、国にその充実を求めて運動している、という話を聞くことはありません(もし行っている人たちがおられるのでしたら、見識不足であり、申し訳ありません)。より大きな問題に対しては積極的に働きかけることをしないまま、病児保育(病後児保育)はおかしいとクレームをつけるのはいったいどうしたことなのでしょう。どちらを向いて仕事をし、歩みを進めているのでしょう。
話がそれて来ましたが、より重要なのは病児保育だということを言いたいのです。仮に看護休暇などがきちんととれるようになったとしても、私たちが責任をもって、任された仕事をしている限り、急に休みを取ることは難しいからです。社会が高度に発展すればするほど、そういった事情をもって働く人たちが多くなります。
それでも「子どもが病気の時は親は休むものだ」と親に“説教”するのであれば、それは仕事を続けるなということを意味してしまいます。そして、そのしわ寄せの大半は、女性が背負うことになるのが、今の日本の社会です。
勘ぐりかもしれませんが、「子どもが病気の時は・・」ということを平気で言う人は、母親は家庭にだけいればいいのだという考えをもっているのではないか、とも思えてしまいます。女性は家庭の中で、男は外で仕事だけをする・・そんな“日本的な家庭観”をまだ引きずっているのではないか、と。
あんな発言をする裏には、もしかしたら「女性が仕事をしながら子育てをするのは、もともと無理なのだ」とか、「自分が働きたいから、家庭で子どもをみずに、早くから子どもを保育園に預けているにちがいない」などという思いがあるのかもしれません。
急性期の病児保育こそ最も必要なものだというのが、私たちの当初からの考えです。そして、それを実現するためには「頼まれたら断らない」をモットーにし、実践しています。保育士などのスタッフにも、施設設備にも余裕をもって、いつでも、だれでも受け入れられる体制を作ってきました。これまでの6年間でお断りしたのは一人もいません。
昨年の利用者が年間で1,800人ほど。1日の平均は7〜8人。全国的にもそうとう突出するほど多くの子どもたちをお預かりしている実績が、私たちの考え方がけっして間違っていないことを証明してくれていると思っています。
自画自賛になってしまいますが、地方の小さな市で、一開業医のところで、公的な補助や制度もなく、細々と(?)やっているのに、この規模にまでなってきたことの意味合いを、ぜひ考えてみてください。
長くなってきたので、そろそろ結論です。昨日の産経新聞の記事では、ただの施設紹介にとどまらず、当院が取り組んでいる「病児保育」の意味をきちんと受け止めてくれていることが、その内容からよく分かります。タイトルにも「急病時も安心対応」「“今日”を助ける」とある通りです。これまでの記事などとは、質的にずいぶん変化してきたものだと、感慨深く読ませていただきました。
ちなみにこの記事を書かれた記者の方は、わざわざ大阪から来られました。掲載の紙面も、全国版を使っていただいたということです。私も取材の中で思いの全てを伝えたいと思いましたが、記者の方の温かなまなざしをこの記事の中から感じることができました。嬉しいです。
投稿者 tsukada : 22:40
2007年06月26日
産経新聞
本日の産経新聞で、当院がおこなっている病児保育についての記事が掲載されました。
インターネット版産経新聞にも掲載されています。どうぞご覧になって下さい。
投稿者 tsukada : 18:36
2007年06月25日
偽装牛肉
このところ、考えられないような事件が続いているおきているように思います。あまりに大きな問題をかかえていて、この「院長ブログ」でもなかなか取り上げることができないうちに、どんどん新しいものが加わっています。
コムスンのこと、社会保険庁や年金のことも“先送り”したまま。私自身も不消化で、胸焼けがしているかのようです。
先月の「麻疹」騒ぎも一段落したようです(といっても、流行の程度が下火になり、ニュースにならなくなっただけであり、本質的な制度改革や「見捨てられた世代」に対する対策は何ら手つかずですが)。今月の「いじめ根絶県民集会」も形の上では終わりました(まだ取り上げなければいけない論点がいくつもあるのですが、私の根気が続いていません)。
そこで「社会問題」も少しずつ取り上げてみることにします。今日は「偽装牛肉」です。
北海道のある食品加工卸会社が、牛肉と偽って豚肉や鶏肉などを混じていたという事件です。ここ数日の報道では、その「偽装」は底なし状態。なかには「牛肉の入っていない牛肉」もあったとか。
社長はこの問題が表面化した当初は、たまたま混じっただけという説明をしていました。それが連日の問題表面化で、最終的には自分の指示で偽装をしていたと認めざるをえませんでした。警察や農林水産省などの捜査や調査の結果がいずれはっきりするでしょう。刑事責任を問われるのは必至です。
今日の報道では、会社は休業に入り、営業再開のめどが立たないので、全従業員の解雇を通知したということです。突然の事態にとまどっている従業員は、大変なことだとは思うのですが、どうしても納得できないことがあります。そのために、同情する気持ちにはまだなりません。
それは、従業員もこの偽装などに関わってこなかったのか、という疑問です。社長が指示したこととはいえ、それがどんなことを意味することであるか、管理職にあるものはもちろんのこと、一般の従業員にも分かっていたのではないか、と考えざるをえないのです。実際の偽装作業をしていたのは誰だったのでしょう。自分の仕事の結果を全く知らずに作業をし続けることなど、できるのでしょうか。
牛肉に他の肉を混ぜる作業をして、そこから出てくる製品パッケージに「牛肉100%」と表示されていれば、それはおかしいぞ、と思うはずです。「国産肉」を作る行程で、外国産肉を入れていれば、ヘンだと気づくはずです。
ある新聞には「工場内では公然の秘密」とありました。従業員はみんな知っていたという報道です。それが真実かどうか、どの範囲の従業員が知っていたのか、正確なことは分かりませんが、でもあながち間違いではないと思うのです。
そうであれば、従業員はどうしてそれを問題にしなかったのでしょうか。知っていて知らないふりをしていたのでしょうか。誰にも話したり、相談したりしなかったのでしょうか。
実際には農林水産省の出先機関に、現物の偽装肉を持って“告発”しに行った元幹部職員もいたということでした。でも、その肉を受け取ってもらえず、まともに取り合ってくれなかったとか。門前払い。その後の公的書類には「疑問を特定できなかった」とか。そりゃそうでしょう、何も調べなかったのですから。
そうであれば、監督官庁の「不作為の不法行為」も問題になります。当然するべき対応をしていれば、もっと早く偽装を見つけ、不正を止めさせることができたはずなのですから。
一番悪いのはこの社長であり、会社です。それは当然です。でも、残念ながら「悪意のある人」は必ず存在します。それをどこで見つけ出し、正していくのか。歯止めをかけるには、誰が何をすればいいのか。
それは、その不正を見つけた人が声を出すことしかありません。周囲にいてそのことに気づいた人が、直接やめさせることができなくても、「知っていること」をかくさず、オープンにすることができれば、ずいぶんと事態は変わってくることでしょう。
みんなが注視しているという状況を作ることで、不正は行いづらくなります。光がさしこむことで、闇は消えていきます。悪意があっても、それを発揮させることができなくなります。
問題解決の道筋はハッキリしています。問題は、一人一人の人間です。悪意はなくても、何もしないことで結果として悪意を増幅してしまうことがあります。結果論ではありますが、「間接的な(消極的な)加担者」になってしまうこともあります。一歩前に進んでみること。それをみんながすることが、社会を良い方向に進めるんだと思います。
こんな話をすると言われてしまいそうです。「塚田の言うことは正論かもしれないが、それが通じないのがこの世の中なのだ」と。そう簡単に変われることではないことは分かっています。でも、何もしなければ変わりません。問題に気づいた人が、少しでも前に進み出る勇気をもつことが、やっぱり必要なのだと思うのですが、いかがでしょう。
投稿者 tsukada : 22:36
2007年06月24日
お天気屋さん
梅雨入りしたものの“良いお天気”が続いていましたが、今日はようやく雨になりました。空(から)梅雨が心配なので、雨模様の方が“良い天気”なのかもしれませんね。
でも、梅雨前線が発達し、急に大雨になるような時は喘息発作をおこしやすいもの。普段から気管支喘息と診断されていたり、風邪などのときにゼーゼー(喘鳴)という呼吸音がするような人は要注意です。手元に気管支拡張薬を用意しておくといいですね。
急に発作を起こしたけれど、薬がない場合・・カフェインに気管支拡張作用があるので、利用できるかもしれません。濃いめの紅茶や緑茶を作り、冷たくして、多めに飲んでみてください。冷たい飲み物の方が温かい物よりも気管支拡張作用があります。
また、水分を多めにとることで、ドロッとして出しにくい痰が柔らかくなり、出しやすくなるかもしれません。薄い飲み物をコップ数杯飲んでみるだけでも、多少は効果が期待できるかもしれません。
それでも辛そうにしているようなら、時間外の診療を受ける必要があるかもしれません。お住まいの地域の時間外診療をしてもらえる医療機関を受診してみてください。
喘息は繰り返し発作を起こすもの。一度発作で苦い思いをしたら、その次を予防することが大切です。かかりつけの小児科医に診てもらい、発作時の対応についてもご相談してみてください。
今日は雨。ということは、明日は喘息発作を起こしている患者さんが多めに来そう。お天気屋さんたちにお付き合いすることになりそうです。
投稿者 tsukada : 23:59
2007年06月22日
夏至
今日は夏至。一年で一番昼間が長く、夜が短い日ということになっています。
当地では昨日、梅雨入りをし、あいにくのお天気。残念ながら、日の入りが遅いことを実感できませんでした。
明日からはまた晴れるという天気予報です。お天気が良くなるのは嬉しいのですが、でも雨量が極端に少ないとなると、もう少し雨が降り続いてくれたほうがいいのかも。
関東では「梅雨入り宣言」の翌日からずっと「梅雨の中日(なかび)」が続いているようですね。梅雨入りの日を訂正する必要があるのだとか。ダムの水が少なくなり、渇水も懸念されるようになってきました。
人間はみんな違っていて、「普通の人」や「普通の生活」がないのと同じように、お天気も「普通の梅雨」とか「普通の一年」がないのが“普通”なのかもしれません。
でも、お天気の「個性」も行き過ぎてしまい、社会に迷惑をかけるようでは困りもの。「普通」から多少はずれても、それに近い方がいいですね。
投稿者 tsukada : 23:02
2007年06月21日
梅雨入り
昨夜から雨が降っています。きっと今日は・・と思っていたら、やはり「梅雨入り」と発表されました。北陸地方と東北地方の梅雨入りは、例年より10日遅いということです。
降水量がとても少なく、乾ききった大地にとっては「恵みの雨」になりました。水不足が心配されていますので、ちょっと一安心といったところでしょうか。
今年はずっとヘンな気候です。まれにみる「暖冬少雪」の冬。新潟県では平野部に雪がほとんど降らず、山間部もとても少なめでした。GWの大型連休くらいまではスキーができるくらいに、山には雪がたっぷり積もるものなのに、4月早々にはスキー場の多くが閉鎖。
山岳部に降り積もった雪が、夏場の水の供給源になるわけですので、今年の夏は水不足になるのではと心配していました。そこに加えて、梅雨入りの大幅な遅れ。
この梅雨も、まとまった雨にはならないという話もあります。関東地方は東海では、梅雨に入っていても「中休み」ばっかりで、本格的な降雨はありません。
もし梅雨明けが早くなれば、今年の夏は各地で水不足が大きな問題になりそうです。大丈夫でしょうか。
梅雨入りはしたものの、雨の降り方が気になる一日でした。
投稿者 tsukada : 18:13
2007年06月20日
お散歩
自宅のすぐ近くです。ゴミ捨てに外に出たときに見つけました。お堀のすぐ近くなので、水の生き物をときどき見かけます。
今日は亀さん。朝からお散歩に出てきたのでしょうか。自動車にひかれないか、ちょっと心配です。
これから梅雨になると、カエルが道路に遊びに(?)出てきます。けっこうすごい数になります。中には交通事故にあうカエルもいます。人間の生活と一緒というのは、無理があるのかもしれませんね。
投稿者 tsukada : 12:06
2007年06月19日
モラハラとしてのいじめ
先日の「いじめ根絶県民集会」では、いろいろなことを知りましたし、考えることができました。自分も子どもを持つ親ですし、小児科医という立場なのに、何もよく分かっていなかったのだな、とも感じたものでした。
「いじめ」について議論しているのに、肝心の「いじめ」とは何か、その定義があいまいです。「いじめ」という言葉だけが一人歩きしている気配もあります。
学校現場で友人や教師との間でトラブルがあると、何でもかんでも「いじめ」になってしまう。それもヘンなこと。人間が二人いれば意見が分かることは普通のこと。感情もそれぞれが違います。その「食い違い」の全てが「いじめ」であったり、「いじめ」のきっかけや原因になるというのであれば、人は社会生活ができなくなってしまいます。
相手が不快に思うようなら、それが「いじめ」なのだという意見もでました。他者との軋轢(あつれき)があり、それが相手にイヤな感情を与えるものであれば排除すべきだというものです。そう考えると、少し「いじめ」の意味合いが整理されてきます。客観的な観点だけではなく、主観的な観点も加味されるというのは、大切な指摘です。
しかしこれも問題があります。相手がそういったマイナスの感情を持たない行為なら、何をしても「いじめ」にはならないのか、という点です。感じ方も違うでしょう。中には、仲間はずれにされるのがイヤで“好んで”被害者になるものもいるでしょう。もしそれを受け入れなければ、自分へのいじめがますますエスカレートしてしまうかもしれません。
そう考えると、「主観的な観点」が大切だといっても、それだけで「いじめ」を定義づけるわけにもいかなくなります。ある意味で袋小路に入ってしまうかも。言葉だけの「神学論争」(当日の司会者の発言)に陥る可能性もあります。
重要なことは、第一にはどんな行為が行われたかという「客観的事実」をしっかりと把握すること。いつ、誰が、誰に対して、どんな状況で、どんな行為を、どのように行ったか。その具体的な事実をはっきりとさせることです。
虐待が問題になっていますが、それについても同じことが言えます。虐待した者はたいていは「しつけのために行った」と言い訳をしますが、そこで行われた事実のみをきちんと把握すれば、それが虐待であったかどうかは容易に判断できます。
もう一つ重要なことがあります。それはその行為を行っている者に「悪意」があるかどうか、です。もし相手に悪意があり、恣意的に行うのであれば、繰り返し、執拗に行われるでしょう。同じ発言でも、その時の表情は嘲笑を伴っているものです。タイミングも、相手を気遣って行う時と、悪意を持ってする場合には自ずと違ってくるでしょう。
その「悪意」を見抜くことは、容易ではないかもしれません。具体的な事実の正確な把握が不可欠ですし、それを通してのみ判断できるのだと思います。
言葉の上では「わざとじゃない」「ふざけただけ」「そんなに気にするとは思ってみなかった」「軽い気持ちでやった」などと、もっともらしいことを言うかもしれません。でも、表面的な言葉だけで判断できません。やはりその内容が問題です。
時には「いじめ」ではないのに、一見「いじめ」のように見える行為もあるでしょう。友人関係のトラブルは日常的におきるのですから。でも、そこでおきる行為は悪意を持ってはいません。執拗に繰り返されることもないでしょう。相手を深く傷つけていることを知れば、自分の行為を悔やみ、相手に謝罪するでしょう。そして、同じ誤りを繰り返さないように心に誓うものです。
先のフリートークの中では、「いじめ」の定義が参加者の中で合意がないままに進行してしまったように思います。いくつかの場面でそれを感じました。
私が「傍観者」について話をした時もそうでした。いじめを直接行っている者と、それを受けている者のほかに、クラスにはいじめを見て知っている多くの友だちがいます。時には教師も知っている場合もあります。それらの人たちがいじめをなくすために立ち上がらなければ、いつまでたってもいじめはなくならないのではないか。「傍観者」になってしまってはいけない、という趣旨です。
その説明をする中で、昨年電車内で起きた女性暴行事件の話も取り上げました。たった一人の犯人を、列車内にいた数十名の乗客が「傍観者」になってしまい、直接暴力を止めさせるのはおろか、車掌や警察に連絡をすることすら、誰一人としてしようとしませんでした。そのためこの犯人は、同様の犯罪を何度か繰り返し起こしています。もし一番最初の犯罪だけで逮捕され、処罰を受けていれば、その後の犯行はありませんでした。最初の被害者も、心と体の傷は小さくなったことも予想されます(何しろ、同乗していた多数の方からも「見捨てられた」のですから)。
厳しいことを言うようですが、あとに続いた犯罪を未然に防ぐことができなかったという意味合いでは、何もせず「傍観者」になっていた人たちは、間接的な加害者だと言われても仕方ないかもしれません。何もしないことは、たとえその時のその人なりの事情はあるかもしれないけれど、でも「卑怯」なことではないか。
そんな話をしたあと、司会者が「犯罪になるようなことは、いじめではありませんから」と一蹴しました。直接反論はしませんでしたが、気落ちしたのは確かです。
そもそもこの「いじめ根絶県民運動」が行われるきっかけは、いじめを苦にしての自殺が子どもたちの中で問題になったからです。大きな「事件」があり、犯罪として刑罰の対象になるものも、そのいじめの中に含まれているかもしれない、といった認識を持っているのだと思っていました。このあたりは、温度差の違いということなのでしょうか。
その場はそのまま進行されるにまかせていたのですが、やはり「いじめ」の定義に触れておかないことには、本質的な進展がないと思い、あとでもう一度発言をしています。そこでは、「いじめは学校現場におけるモラル・ハラスメント」という考え方を紹介しました。
類似の言葉に「セクシャル・ハラスメント(セクハラ)」や「パワー・ハラスメント(パワハラ)」などがあります。それらは、昔であれば仕方ないことと思われていましたが、現在は少しずつ明確な基準や行動指針ができてきて、こういった行為は問題になるというものができてきています。「ドメスティック・バイオレンス(DV)」もそうです。
「モラル・ハラスメント」という考え方は、それらと共通する面がおおいのですが、さらに大きくて普遍的な人間関係の基本を律するものです。夫婦関係でも友人関係でも、やってはいけない行為があります。とくに悪意をもってなされるものは相手の人間としての人格をおとしめ、時に精神を破壊します。周囲はおろか、自分自身も気づかすにその罠にはまってしまうこともあります。
今起きている「いじめ」の全てが「モラル・ハラスメント」だとは思いません。修復可能な、程度の軽いものが多いからです。今回の県民集会でも、「どんな子もいじめをしてしまうかもしれない」「どんな子もいじめられるかもしれない」と指摘されました。そうであればなおさら、いじめとして問題視される中で、すでに「モラル・ハラスメント」であると見なせる悪質なもの、あるいは今後「モラル・ハラスメント」になってしまいそうな可能性のあるものを見抜くことが必要になってきます。
いじめのすべてをなくすことはできないかもしれない。それは、人間関係のトラブルはなくならないのだから。あるいは、子どもたちの全てのことを見ていることなど、教師にも親にもできないのだから、といった意見も聞こえてきます。そう思うのであればなおさら、いじめの中でも「悪質なもの」とそうではないものを、しっかりと見分ける目を、大人たちが養う必要あります。もちろん、前者に対しては強力に介入し、早期に対処する必要があり、その手だてを備えることも、また大切なことです。
そんな意味合いで「モラル・ハラスメント」の考え方をお話ししたのですが、どうもこれが上滑りしていたようです。司会者も進行に関係ないことと思ったのかもしれません。確かに、事前の打ち合わせではこの点について私が触れるとは言っていなかったわけですし、そもそもこの用語そのものもなじみのない方が大半だったでしょうから。
でも、この考え方はとても大切です(私はそう思っています)。あの場で多少触れることができ、それがきっかけで「いじめ根絶」への考え方や取り組み方が飛躍するといいな、と願っています。
教育の分野はもちろん、さらに家庭内のこと、仕事上のこと、社会生活の中でのこと、あらゆる場面で重要なこととして次第にとりあげられていくものだと思います。皆さんもぜひ考えてみてください。
投稿者 tsukada : 22:54
2007年06月18日
友だちの輪
私の大学時代の友人に、エイズや性教育の分野で活躍しているドクターがいます。岩室紳也先生です。先日、当地で水谷修さんの講演会がありましたが、その際に水谷さんを紹介してくれたのも、岩室くんです。
知る人ぞ知るという、その筋ではけっこう有名人(どんな筋?)。学校保健に関わる人の中では、良く知られています。元タレントの飯島愛さんともお知り合いで、各地でのエイズ関係のイベントでトークをされていました。
でも一般の方にはあまり知られていないかもしれません。もったいないことです。
「病院検索MEDWEB」で私がインタビューを受けたことは、この「院長ブログ」でもお話をしました。麻疹についてです。
取材の記者の方から、どなたか良い仕事をしているドクターをおられれば紹介してほしいという依頼がありました。真っ先に頭に浮かんだのが、この岩室先生のこと。双方に伝えると、すぐに「交渉成立」。
そして、そのインタビュー記事が完成し、ネット上で公開されました。
彼の考え方、見方は大いに参考になります。ぜひお読みになって下さい。
投稿者 tsukada : 19:46
2007年06月17日
梅雨明け?
暑い一日でした。新潟はまだ梅雨入りしていませんが、まるで梅雨明けしたような好天気。散歩に出ましたが、暑くてそうそうに帰ってきました。
東洋一とよばれている高田公園お堀の蓮の花。蓮の葉が大きく開いています。いつの間にか湖面がずいぶんと緑色に覆われるまでになっていました。
遠くに見える妙高山も、ほとんど雪がなくなっているようです。もうすぐ夏なのですね。水不足が心配ですが・・。
投稿者 tsukada : 17:05
2007年06月16日
いじめ根絶県民集会より
「いじめ」についての基調講演が1時間ほどあり、その後「フリートーク」。進行役を含め、総勢13名が壇上に並びました。それぞれの立場から経験談や意見を話し、それをディスカッションしようという企画です。
私もまじめな顔をして(!)お話ししました。小児科医という立場なので、子育てから始まり、家庭の問題(女性の問題)、自殺の問題など、いくつかのお話をしました。短い時間だったので、参加者にきちんと伝わっていたか心配。
フリートークのメインは、何と言っても子どもたちの生の声。中学生3名と、高校生、大学院生の5名が、一番の主役でした。なかなか先生方や親御さんには伝わってこない本音や「裏の話」を聞くこともできました。参加者にとって、最大の収穫だったかもしれません。
終わったあとは全員で記念写真。子どもたちに前に並んでもらって、大人たちは脇役です。この関係が、一番いいですね。
私は「ご褒美」に、進行役をしておられたアナウンサーさんとツーショット。BSN(新潟放送)の伊勢みずほさんです。夕方の人気テレビ番組「イブニング王国」に出演中。
背が高くて、きれいな方。お話がとても分かりやすく、賢さも感じます。そのくせいやらしさはなく、とても明るい女子アナさんでした。
私の話はあまり参加者にはあまり受けなかったようで、少々気落ちしているところもあります。でも、この方に会えただけでも、出演した甲斐があったかな(*^_^*)
投稿者 tsukada : 23:29
2007年06月15日
いじめ根絶県民集会
明日は「いじめ根絶県民集会」が新潟市で開かれます。私も小児科医として、その中のフリートークに参加。10名ほどの参加者が、それぞれの立場から「いじめ根絶」のために何が必要か、どうすれば良いか、話をすることになっています。
新聞やテレビの記者、青年会議所の方、人権関係の方など、そうそうたるメンバーに加えて、中学生、高校生、そして大学生も加わってのフリートークです。いろんな話が飛び出してきそうです。
今日、それぞれの方の意見などが書かれたブリーフが手元に届きました。先ほどから読んでいるのですが、一番興味を抱いたのは子どもたちのものでした。
直接いじめられた経験のある子、いじめる側になったこともある子、いじめをなくすために学校ぐるみで取り組んでいる子・・それぞれが身をもって体験していることをベースに、これから私たちは何をどうすればいいかが書かれています。
その一つ一つにうなづきながら、読み進めることできました。正直に言って、大人たちの書いたもの(正しくは担当の方が聞き書きをしたもの)よりもずっと「面白かった」です。形にはまったものではなく、ちゃんと内容のあるものだからです。
何よりも、いじめの問題や、学校などでの人間関係について、あるいは生き方そのものについて、しっかり見つめ、考えていることを知ったのが、一番の収穫です。読む前は、どこかに「まだ子どもなのだ」とバカにしてしまっていた自分を恥じています。
小児科医として何を伝えてこようかと、思案しています。私の話のキーワードは「(子どもを)ほめて育てる」と「傍観者(になるな)」です。子どもたちの意見を読んだあとでは、何だか気恥ずかしくなってしまいました。みんなに分かるような肉付けをして、お話しするようにしましょう。
明日は午前の外来が終わったら新潟市に向かいます。同じ県内とはいえ、150キロ離れていると、時間が心配。1時半からの開催(最初の1時間は基調講演)には何とか間に合わせたいと思っています。
そして、すばらしい主張をもった素敵な子どもたちを話し合いができることが、今から楽しみです。
投稿者 tsukada : 23:59
2007年06月14日
校内出産
先日、新潟県内のある高校で、女子高生が校内のトイレで赤ちゃんを産み、その直後、その赤ちゃんが死亡しているのが見つかりました。高校生は産んだあと、友だちに携帯電話で連絡し、先生方が駆けつけましたが、すでに赤ちゃんは亡くなっていました。
妊娠していることには、友人、学校関係者、そして家族も気づいていなかったそうです。臨月での出産だということですが、若い女性の場合に、骨盤腔にすっぽりと胎児が収まってしまうことがあり、さほどお腹が前に突きでないこともあるのだそうです。
生理がなくなりますが、若い方は生理不順はよくおきるので、数か月程度無月経が続いても本人も良く分からないことがあるとか。でも、臨月まで来ているわけですから、気づかないわけはないでしょうね。少なくともセックスはしているわけですから。
きっと誰にも相談できずにいたのでしょう。家族にも、友人にも打ち明けられず、一人で抱え込んでいたに違いありません。辛い気持ちが、ずっと続いていたのでしょう。
セックスするほどの男友達がいたはずなのに(レイプされたのではないとしたら)、その彼に妊娠の事実を告げるということはなかったのでしょうか。それほどの深い関係でもなかったの?
あるいは、彼に心配をかけてはいけない、迷惑をかけてはいけない、などという気持ちが働いた? 彼に嫌われたり、捨てられたりしてはいやだ、なんて気持ちにもなったのかもしれません。
きっとコンドームを使っての避妊はしていないのでしょう。セックスには妊娠の可能性が必ずあります。その時に「傷つく」のは女性だけ。男は安泰です。
もし相手が「不特定多数の女性と性交渉をしている男性」であれば、女性は性感染症にかかる心配もあります。エイズもその一つ。ここまでくると、女性自身がしっかりと物事を考えていなければ、自分自身の命さえも脅かされることになります。
「寝た子を起こすな」という意見があります。十代の子どもたちに、セックスのこと、エイズのこと、そして避妊のことなど、いわゆる性教育をすることに対して反対する意見です。こういった「知識」を教えるから、かえって興味を持つのだと。
そういった一面もあるかもしれませんが、もうすでに十分な興味を子どもたちは持っています。「性教育は悪」と考えるのなら、日本中のテレビや雑誌などから、性に関する行き過ぎた表現を撤廃するように働きかけてほしいものです。
一方的で偏ったいかがわしい情報が大量に若い子どもたちに与え続けられている現状では、ますます「正しい知識」を伝えることをしなくてはならないはずです。もちろん、マスコミなどの情報をきちんとするようにしてほしいですが、今の日本でそこまですぐにできるとは思えません。まずは子どもたちを「あふれかえった情報」からどう守るかを真剣に考えましょう。
この女子高生には、性に対する正しい知識を十分にもっていなかったことは確かでしょう。さらに、家族や友人に相談する勇気もなかった。いや、打ち明けてもらえるような信頼できる人間関係を、お互いが作ることができていなかったのでしょう。それは、この子のことだけだではなく、今の子どもたちの普通の様子かもしれません。
学校のトイレで産み落とされた赤ちゃんは、水死していました。出産後、この子の手によって便座の中につけられたのだというのです。「死んでしまうことは分かっていた」のだとか。この間、どれくらいの時間があったのでしょうか。彼女が「母親」であったのは、ほんのわずかな時間だったのでしょう。母親としての自覚、責任、そして愛情を感じる余裕はなかったに違いありません。
彼女は殺人容疑で逮捕され、身柄を拘束されたまま送検されました。これから法律によって裁かれる身になります。
この事件の被害者は、母親に抱いてもらうこともできず、名前もつけられないまま死んでいった赤ちゃんです。加害者は女子高校生・・いや、彼女も被害者なのかもしれません。具体的なことは分かりませんが、ゆがんだ社会の中で、自分を見失っていったようにも思えるのです。
「性」と「生」について、子どもたちといっぱい話し合わなくていけないですね。それを避けていたら、これからも不幸な若き母親と赤ちゃんが生まれてきてしまうでしょう。
投稿者 tsukada : 23:59
開院記念日
今日6月14日は塚田こども医院のお誕生日の日。1990年(平成2年)生まれで、満17歳になりました。
といっても、とくにいつもと変わったことはないのですが、職員からはお祝いをいただきました。添えられていたカードが、この写真です。心を込めた手作りカードをいただき、ありがとうございました。
お祝い文を書いてくれた人も、実は今日が誕生日。毎年のことなのですが、いっしょに「お誕生日」をお互いお祝いしています。彼女が何周年かは・・高度な機密事項に属しますのでお答えできません(^^;)
今日は中国地方から関東甲信までの広い範囲が一挙に梅雨入りしました。例年より数日遅れているようですね。夜のニュースでは、都内の人たちは傘をさしていました。いよいようっとうしい季節です。
新潟は梅雨入り間近かで足踏み状態。北陸地方は来週は良いお天気が続くとのことで、梅雨入りはそれ以降になるようです。
今夏は異常気象になりそうだとか。梅雨が早く明け、猛暑に。雪国は暖冬少雪でしたので、山に積もっている雪も少なくなっているはずです。水不足がとても深刻になるかもしれません。大丈夫か、今からもう心配です。
ともあれ、今日は当院の開院記念日。それに免じて、良いお天気・・ほどほどに晴れて、ほどほどに雨が降る・・になってくれるといいですね。
投稿者 tsukada : 18:06
2007年06月12日
リニューアル
当院駐車場に設置してある看板を新しくしました。
「先代」は10年ほど前からあり、最近はサビが出たり、塗装が薄くなってきたりして、「お歳」を感じさせるようになってきていました。「開院17周年」にあたる月なので・・というのは全く関係ありません。私が医院の外を歩いていて、気になって急きょ、看板屋さんに依頼しました。
といっても、毎日のようにこの看板を見ています。少なくても目には入っています。でも少しずつ変化しているので、いたんできていてもあまり気に留まらないんですね。
患者さんや、ここを通る人たちの目には、きっと「看板がだいぶ古くなったな」って感じていたかもしれません。時々見るだけだと劣化していく様子がかえって良く分かることでしょう。あるいは、初めて見る人のほうが、過去やいきさつを知らない分だけ、その古さを見抜いてしまうかもしれません。
新しい看板は、キャラクターの子どもたちは同じですが、デザインは少し変えてあります。明るくなりましたし、以前のものより温かさも伝わってくるかと思います。
医院の建物、内装、そこに置いてあるもの・・毎日そこで過ごしていると、古くなったり、いたんできたりすることに鈍感になってしまいがち。ぼんやりと見ていないで、意識して見ること、客観的に見ることは難しいですが、でも大切なんですね。
投稿者 tsukada : 23:59
2007年06月11日
自転車
10年ぶりに戻ってきた自転車です。娘が中学生時代に乗っていたのですが、高校進学時に新しいのに乗り換えました。その際に「燃えないゴミ」として地区のゴミ収集所に出したはずのもの。それが今になって、戻ってきました。
先日、近隣市の警察から、我が家の自転車が放置されているとの連絡が入りました。「防犯登録」で分かったとのこと。すでに廃棄したものだから、適当に処分してほしいとお願いしたのですが、それはできないとの返事でした。
所有者が取りに行かないといけないというのです。そして戻ってきたのが、この自転車。
誰かがゴミステーションから勝手に持って行ってしまったということなのでしょう。いわば窃盗にあった自転車。その被害者が、頭を下げてもらい受けに行かなくてはいけないなんて、どこかヘンですよね。
もし「防犯登録」をしていなければ、面倒をかかる必要もなかったことになります。何のための「防犯登録」なのだろう。窃盗という犯罪を防止できないどころか、被害者を「自転車放置」の加害者扱いにするなんて。
一見すると、まだけっこう走れそうですが、よく見ると、あちこちサビがでていますし、タイヤもすり切れそうになっています。やっぱり「歴史」を感じさせます。
でも、タイヤの空気はいっぱいに入っていました。放置する直前まで、誰かが乗っていたようです。この自転車にとっては、寿命が10年近くも伸びたということになります。
数年で捨てられることになったのに、「窃盗犯」のおかげで長生きできたようです。それも、自転車本来の役割である人を乗せて走ることをしながら。
考えようによっては、自転車にとっては幸運な時間を過ごしていたのかもしれませんね。そう考えると、そのまままたゴミステーションに出すことがためらわれてしまいました。(でも、出してしまいましたが)
投稿者 tsukada : 23:39
2007年06月10日
夜回り先生
今日は水谷修氏の講演会が開かれました。「夜回り先生」として、子どもたちを救い続けた先生です。
講演の内容は、とても素晴らしいもの。先生が実際に体験された子どもたちの様子を、いろいろと話して下さいました。
夜という闇の世界に好きこのんで出かける子どもたちはいない。できれば昼の明るい世界で輝きたいと思っている。それなのに、家庭、学校、地域は子どもたちの居場所を奪い、夜の世界に追いやっている。そんな中で出会った数々の話は、心が締め付けられるほど強烈でした。
大人の世界に蔓延しているイライラが、家庭をも侵しているし、子どもたちに攻撃が向いているとも。そのはけ口がいじめにつながることも指摘されていました。
子どもたちを温かく、大切に育てよう。良いところをしっかりとほめて、明るい気持ちで過ごせるようにしよう。思いやる気持ちがあふれて家庭や学校には、悪意が入り込む余地はなくなる。
薬物中毒の問題も取り上げておられました。表の社会ではさほど問題にはしていないけれど、裏の社会では確実に子どもたちを含めて広がりつつあると。その悲惨な様子を耳にすることは、医者である私ですら涙をこらえることはできませんでした。
多くの方が講演を聴きに来られていました。その人たちが、明日から少しずつでも子どもたちのことを理解し、自分自身も優しい気持ちになり、子どもたちを本当に愛することができるようになってほしいものです。いや、きっとできるでしょう。それだけインパクトの強いお話でしたから。
私自身も、さあ何ができるか、しなくてはいけないのか、じっくり考えてみようと思う気持ちになりました。もう一度、小児科医としての仕事や生き方を見直すべきですね。そして、これまで以上に、子どもたちの味方になれるように、努力していかなくてはいけない、と。
ところで講演会に先立って心配なことがありました。水谷氏の健康です。すでにご自身が公開されているように、病気をおして「夜回り」をしたり、こういった後援会活動をしています。夜眠れないことに加えて、超多忙な毎日。無理に無理を重ねておられます。
開演前にご挨拶させていただきましたが、お元気そうに見え、安心しました。1時間半にわたるご講演も、途中に休むことも、イスにすわることもなく一気にお話されました。でも、喉の調子が悪いのか、ときどきむせたりしている様子もありましたが、大丈夫だったでしょうか。やはりお疲れだったでしょうか。
「夜回り先生」として長く活動されてきた水谷先生。少しここで休みをとられてもいいのではないでしょうか。そして、これからもずっと子どもたちのことを見守っていてください。
もっとも、そんなことを水谷先生にお話ししたところで一蹴されることは、目に見えていますが。
投稿者 tsukada : 23:54
2007年06月09日
水谷修氏
明日は「夜回り先生」こと水谷修氏の講演会が、当地(新潟県上越市)で開催されます。水谷氏の著書を読んだり、テレビなどを通じてお話を聞いたことはありますが、生の声で直接お話を聞けるのは今回が初めて。楽しみにしています。
当院では毎年「上越子育てフォーラム」を開催しています(今年は来月7日に細川佳代子氏の講演)。来年度のフォーラムにお願いしたいと思い連絡をとったところ、すでに上越市での講演会が予定されていることが分かりました。上越青年会議所の主催です。
水谷氏と主催者のご厚意で、当院やフォーラムの関係者に参加枠をいただき、当院を通じて入場整理券をお渡ししてきました。300人分を頂戴し、ほぼ全部を希望する方にお渡しできました。
水谷氏とは直接の面識はなく、明日初めてお会いすることになっています。楽しみです。実は私の大学時代の同級生が、水谷氏と懇意だということで、今回もその友人に紹介してもらいました。
水谷氏に電話をかけたことがあるのですが、電話口の向こうからの「水谷です・・」という、低くてクールな声がしてきました。テレビなどで聞いた声を同じ。かっこいいですね! 私とほぼ同じ年齢(水谷氏51歳、私50歳)なのですが、ずいぶん違うものです。
明日は、そんな水谷氏の生の講演をお聞きし、しっかり勉強してきたいと思っています。
投稿者 tsukada : 23:59
2007年06月08日
開院記念
6月は当院にとって記念の月。医院の開設が1990年6月、そして併設のわたぼうし病児保育室の設置が2001年6月だからです。
医院を始めた頃のことを時々思い出すことがあります。開業医はどこでもそうですが、開業当初は患者さんがそれほど多くないもの。診療を続ける中で、しだいに増えてくるのが普通です。
当院も最初の半年くらいは「超」がつくくらいヒマでした。午前と午後に2冊、赤川次郎を読めたくらい(^^;) 今の医院からは想像できないでしょうね。
そして6月と言えば梅雨入り。長雨の中で“開業して良かったのかな?”などと、少々気持ちが落ち込んでいたこともありました。
でも、医院の周りに植えたサツキがきれいに咲き出していたのも6月。それを見ると落ち着いた気分にもなりました。
今年もサツキの花がでそろいました。医院を温かく見守ってくれているかのようです。
医院は17周年、病児保育室は6周年になります。私たちも初心に戻って、子どもたちを温かく見守っていきたいと思います。
投稿者 tsukada : 17:40
2007年06月07日
もう一つのインタビュー
昨日のもう一人のインタビューアーは、女子中学生。ここ3日間、職場体験のために当院に来られていましたが、その最終日に「何でも聞いていいよ」と言っておいたのがインタビューになりました。
「どうして医者になったのですか?」「この仕事の魅力はなんですか?」「楽しいことや嬉しかったことはなんですか?」「苦しかったことや悲しかったことはなんですか?」・・そんな質問が十数個ありました。
いつもは、ちょっとひねくれた答えをしたり、言葉の遊びをしたりすることも多いのですが、相手が中学生ではやめておいたほうがいいですよね。真っ正面からちゃんと答えました。
彼女は将来の希望が小児科医なのだそうです。そして、アフリカなどの発展途上国で、医療に恵まれない子どもたちを救いたいのだと、話していました。なかなか感心なことです。
中学生の段階ではまだ自分が大人になってからやりたい仕事について、はっきりとしていないこともよくあるでしょう。それが普通かもしれません。何となく「こんな仕事がしたいな」「こんなふうな大人になりたいな」「人の役にたつ仕事をしたいな」などという希望が見えてくるだけでも、たいしたものです。
彼女のように、しっかりとしたイメージがもてるということは、とてもすばらしいこと。将来に対してポジティブに考えられるというのは、ベースに現在の自己イメージがポジティブだから。今の自分を肯定的にみることができるからこそ、未来の自分をきちんと描き出せるのです。
「どうせ私なんか・・」と、自分のことを否定的にとらえる傾向が強いと、これから先の自分も「どうでもいいや」と思いがち。大人になることに、特別な感慨もなく、希望や期待もそこからは発生しません。
「こんな仕事をしたい」「こんな大人になりたい」と思えるようになることは、自分をしっかりと持っているから。アイデンティティーを確立しつつあるからです。そして、具体的なイメージが育ってくるのは、思い描くモデルの存在も必要です。
身近な大人もそうです。あんなふうになりたいな、と信頼を寄せることができる人が必要です。テレビや本の世界でも、あこがれるような人がいるといいですね。素敵な生き方をしている、私もなりたい、と思える人たちも、子どもたちの心の中で目標として根付くものです。
私たち大人は、子どもたちの良いモデルになれているでしょうか。しっかり輝いているでしょうか。子どもたちにあこがれられる存在でしょうか。
日本人の子どもたちは、他の国の子どもたちに比べて、自己肯定感が極端に低く、否定感がそうとう強いといわれています。その結果、将来に対して明るく確実な思いをもてないでいます。どうしてそんなふうになってしまっているのでしょう。私たちの子育てや、日本という社会そのものがどこかで間違っているということなのでしょう。
今日の夕刊には、子どもたちの自殺がまた増えているとあります。自殺は、自分を否定する最悪の行動。何とかしないといけないですよ。
職場体験におとずれた中学生は、おそらく自分に自信をもつことができているのでしょう。医者になるかどうか、具体的なことは分かりませんし、それ自体は変わっていくのも当然なのですが、でもしっかりとした足取りで、明るい未来に向かって確実に歩んでいけることでしょう。
3日間、一人で知らない大人の中に居られたというだけでも、彼女の心が大きな根を持ってきちんと育ってきていることが分かります。偉いことです。
ここでの体験から、また何かを吸収し、心がもっと大きく成長してくれることを願っています。3日間、ご苦労様でした。
投稿者 tsukada : 23:57
2007年06月06日
インタビュー
今日は夕方から猛烈な雨が降りました。一時「大雨警報」が出されていたくらい。朝から湿度が高く、もうすぐ梅雨入りなのかな、と予感させるくらいでした。
低気圧が発達する日は喘息発作をおこしやすいもの。みなさん、大丈夫でしたか? ウイルス性胃腸炎(嘔吐下痢症)がいまだ多く発生してますし、普通の風邪も多いようです。体調の管理に気をつけていてください。
今日は午後に2本のインタビューがありました。一つは医院で使用している検査機器のメーカーからのもの。血算(白血球や赤血球の数を計測)や、CRPという炎症反応を示す検査を行うもの。これらは違う種類の検査で、2つの器械が必要になります。血液の処理も、別の方法を用いることになります。
いずれも、いろいろな病気の診断や治療経過をみていく上でとても大切な検査です。感染症の診療にとても役立つことが多く、病気の重症度の判定や、抗生物質を使用すべきかどうか、入院治療が必要かどうかの目安にもなります。急性の感染症が多い小児科外来では、必須の検査といってもいいかもしれません。
件(くだん)の器械はそれを一つに合体させたという優れもの。器械一つで両方検査ができるようにしてあります。操作手順も1回ですみますし、血液の処理も1つの方法だけですみます。結果の印字も、一つの用紙に行います。
この器械が発売されたのは今から10年近く前。それまでは別々の器械を使っていましたが、その煩雑さを知っていたので、医学雑誌に広告が出たとき、すぐに問い合わせました。説明を受け、すぐに購入を決定。新潟県内で初めての導入だったそうです。
その後、検査の頻度が高まり、2年後には同じ器械をもう1台購入しました。それによって処理能力とスピードがアップ。1台あたりの負担が半減、結果がでるまでの時間が半分になりました。ときには故障することがありますが、そんな時でも検査の流れが止まることがありません。
あるいは検査結果が異常と出たときに、それが器械のトラブルによるものかどうかを、もう1台で検査することで確かめることもできます。正確な診療を行うためにも、大いに役に立っています。
こんなふうに、このメーカーの検査器械を2台並べて使っているのは、どうやら日本中で当院だけのようなのです。メーカーが興味を持ち、当院のことを取材させてほしいといって実現したのが、今日のインタビューでした。
2台の器械はそろそろ寿命が来ているよう。ときどき故障をし、メンテナンスも大変になってきました。新しい機器を購入することになり、昨日、設置が完了しました。以前からの器械もとりあえずそのまま置いてあるので、新旧併せて4台がずらりと並んでいます。なかなか見事な光景。それらを前に、看護師や検査技師が記念写真を撮ってもらい、それもインタビュー記事で使われるようです。
10年近くも頑張って働いてくれた器械さん、お役目ご苦労様でした。新しい器械さん、これからハードな毎日ですが、お友達(?)も一緒だから、寂しくはないですよね。頑張ってください!
<新しく入った2台の“頼もしいやつ”です>
もう一つのインタビューは、とてもかわいい方から受けました。その話は、また明日。
投稿者 tsukada : 23:59
2007年06月05日
見捨てられた世代
朝日新聞に昨日掲載された私の投稿を読んでくださった方が、思った以上に多いようです。何人かの方から、直接お声をかけていただいたり、メールをいただいたりしています。
麻疹流行を食い止め、日本もほかの先進国並みに「麻疹の制圧」を達成することが重要だということを、良く理解していただいています。願わくば、「のど元過ぎれば熱さを忘れる」などということなく、この問題に関心を持ち続けていただければと思います。
投稿の中で私が使った「見捨てられた世代」という表現を、多くの方から納得してもらったり、共感してもらったりしているようです。麻疹予防接種が2回法になった昨年度において、その対象外になった小学生以上の子どもたちや、免疫をさほどもっていない青年たちのことです。
新聞を読んでいただいた方だけではありません。今日は当院に予防接種に来られた方に、このお話をすることが多かったのですが、みな一応にうなずいていただいていました。
麻疹・風疹予防接種の2期(保育園や幼稚園の年長)を受けに来られたお子さんに、上にお兄ちゃんやお姉ちゃんがいる場合には必ず触れています。ぜひ上の子にも麻疹・風疹混合ワクチンを受けて下さいと。
この時に、国の制度から漏れてしまっているのだけれど、それは必要があるのに制度化されなかったのだと。「見捨てられた世代」の予防接種は、本来は国や自治体の責任で行われなくてはいけないけれど、残念ながらいつまで待てば実現できるか分からない(というより、実現の見通しがない)。当面は、自腹で予防接種を受けていただくしかないけれど、そうすればその子はおそらく一生、麻疹や風疹にかからなくてすむでしょう、と。
そんなふうに丁寧にお話をすると、それじゃあ上の子も任意接種で早めに受けておきましょう、というお返事をいただけることも多くなりました。決して小さくない出費ですが、ご本人にとっては一生のプレゼント。そして、周囲の方に麻疹や風疹を感染させないという意味合いでは、とても大切な社会的役割を果たすことになります。
あとは、当院の領収書を添えて、厚生労働省に請求書を発送しましょう・・と提案すると、「ぜひやりたい!」と言われる方もおられました。日本中で行われている任意接種の費用を、国にまとめて請求するのもいいかもしれませんね。
ところで「見捨てられた世代」というのは、なかなか的を得た良い表現だと思うのですが、いかがでしょう。今年の流行語大賞にはなりませんか?(なるはずがないですね)
新聞とかテレビで使い始めると、一挙に広がりそうな予感を個人的には持っています。どこかのマスコミで採用してくれませんか?
投稿者 tsukada : 18:41
2007年06月04日
投稿
朝日新聞「声」欄(2007年6月4日)に掲載された拙文です。どうぞお読み下さい。
はしか根絶へ
接種は保険で
小児科医 塚田 次郎(新潟県上越市 50歳)
はしかが大学生を中心に流行し、大きな社会問題になっています。休講などの対応で下火になるでしょうが、流行しやすい状況はこれからも続きます。
ワクチンによる免疫は自然感染による免疫よりも弱いため複数回の接種が必要です。欧米などでは早くから2回以上の接種を行い、根絶に近づいています。
日本では昨年度から1歳と小学入学前の2回接種することになりましたが、以前は1回のみで、それすら受けなかった人たちもいます。20代を主とする.「見捨てられた世代」に対し、国の責任で予防接種を行うこと以外に日本からはしかを無くす方法はありません。
そこで提唱したいのが公的な医療保険の活用です。ワクチンの用意さえできれば全国のほとんどの医療機関で直ちに予防接種を受けられるようになります。
はしか流行による医療費増加を考えると、ワクチン接種の費用は十分賄えます。国が一定の費用負担をすれば、保険財政は悪化しません。国民皆保険制度のお陰で全国で同じサービスを少ない負担で容易に受けられます。
予防接種の態勢が整えられ、はしかが1日も早く根絶されることを願います。
投稿者 tsukada : 12:46
2007年06月03日
マラソン
6月最初の日曜はとても良いお天気に恵まれました。夏を思わせるような強い日差し。でも湿度は低めだったようで、木陰に入れば爽やか。こんな日はスポーツで汗を流すと気持ちいいでしょうね。
今日は我が家の前はランナーたちが駆け抜けていきました。恒例の市民マラソンが開かれたのです。
小さな子どもたちも一緒になって走っていきました。みんな、気持ちよく走れたことでしょうね。
私は・・見ているだけ。せいぜい犬の散歩をするくらい。これではいけないのでしょうね。そうは思っているのですが、なかなか実行できません。
先日読んだ医療雑誌に面白い記事を見つけました。アメリカで行われた実験が紹介してあるのですが、太極拳が健康状態の向上にとても良いというのです。
高齢者に2つのグループに分け、一つでは太極拳をしてもらい、もう一つでが通常の運動をしてもらいました。その後に帯状疱疹にかかる率や、水痘・帯状疱疹ウイルスに対する免疫能を検査したところ、太極拳をしているグループが有意に健康状態が良くなったという結果だったというのです。その程度は、ワクチン接種を受けるのと同じ程度だったというのですから、驚きです。
小児期に水ぼうそう(水痘)に罹患すると、水痘ウイルスのDNA(遺伝子)が神経細胞の中に残ってしまいます。高齢になって体力が衰え、水痘ウイルスを押さえ込んでいた免疫の働きが弱くなると、眠っていたDNAが増殖を始め、神経にそって皮膚に水疱を作ったのが「帯状疱疹」です。
太極拳は健康に良いとされていますが、具体的な医学的データでその効果を示したのは初めてかもしれません。中国の長い歴史が作り上げた健康法が、現代の科学でその有用性を立証されたことになります。
そんな記事を読んでから、急に太極拳に興味を持ちました。面白そうです。激しい動きではないようですし、汗をだらだらかくこともなさそう。何よりも、シューズもラケットもユニフォームもいりません。初期投下費用=ゼロ、維持費=ゼロ。これは魅力です。
とりあえずは本屋さんへ走るとしましょう。もちろん自動車に乗ってですが。
投稿者 tsukada : 11:41
2007年06月02日
カナダでは
日本国内で流行している麻疹が、カナダでも問題になりました。日本からの修学旅行中の高校生が麻疹を発症し、病院に入院。同行した生徒たちを教職員もホテルに待機を命じられたということです。
検査をし、免疫のない41名にワクチンを接種し、麻疹らしい症状も出ていないことから、入院中の一人を除いて帰国の予定になりました。しかし、出国検査で問題になり、この41名は飛行機への搭乗を拒否され、出国できないでいます。
カナダも予防接種を徹底して行うなどによって麻疹発生がほぼゼロになっています(「根絶」の手前の「排除状態」)。日本での麻疹流行を、とても神経質にみていることは容易に想像がつきます。
修学旅行の生徒さんたちには同情を禁じ得ませんが、でもこれが「先進国の常識」。麻疹の根絶に向けて、国をあげて真剣に取り組んでいるからこその、厳しい対応なのです。
もしも麻疹患者になってしまったら、その周囲に麻疹ウイルスをばらまいてしまいます。私たちは陸の孤島に一人で生きているわけではありません。多くの人たちとともに一緒に生きています。その中で麻疹を完全になくすためには、例外なく全ての人が麻疹にかからないだけの十分な免疫を持つことです。
ドミノ倒しに似ているかもしれません。一つのドミノが隣に傾くと、次のドミノが倒れ、そのまた次のドミノも倒れていく・・。もしもドミノが倒れないようなストッパーがおいてあれば、ドミノ倒しの連鎖はそこで止まります。
麻疹に対する免疫をきちんとつけておけば、その人の周囲で麻疹が発生し、麻疹ウイルスに暴露されても、のどや鼻の粘膜でブロックされ、体内に入り込むことはありません。麻疹ウイルスを増殖されることがないわけですから、麻疹を発症しないと同時に、麻疹ウイルスをまき散らすことはありません。見事にストッパー役を果たしてくれます。
「2回の麻疹接種」によって十分な免疫を作っておくことは、自分を守るためでもあり、社会を守るためにもなるのだということを、知っていてください。
外務省は、カナダでのトラブルを受けて「30歳未満ではしかの免疫がないと思われる渡航予定者に対し、ワクチンの接種を勧める」という渡航情報を1日に出しました。これは異例のことだそうです。全文は次のページでご確認下さい。
外務省の公式HPに、麻疹についての注意が出てくるようになりました。では厚生労働省はどんな対応をしているのか、HPを見てみましたが、なかなかそれらしいものを見かけません。やっと見つけ出したのが、麻疹についてのQ&Aでした。
内容は見ていただくと分かりますが、ほとんど他人事です。厚労省は評論家の集まりなの? こんな内容なら、私のHPにもすでに書き込んでありますよ。あなたたちがしなくてはいけないことは、具体的な政策の立案と実行でしょ!
少なくとも、カナダで修学旅行生が陥ったトラブルについて、どんな点が問題であって、これからどのようにしていかなくてはいけないかを示さなくてはいけないはずです。
「30歳未満には麻疹予防接種を!」と外務省が言っているのに、厚労省がきちんと対応しようとしないなんて、やっぱりおかしな国ですよ。
投稿者 tsukada : 21:08
2007年06月01日
こんにゃく入りゼリー
6月に入りました。制服のある学校などでは衣替えもしたようですね。このところずっと暑いほどの日が続いたので、ちょっと肌寒く感じた方もおられたかも。風邪を引かないように(^^;)
先日、こんにゃく入りゼリーによる窒息死があったと報告されていました。以前は小さな幼児に多かったのに、今回は7歳の子が二人続いて事故にあったとのこと。
私も認識が不十分でした。こんにゃく入りゼリーが危険なのは、その形が問題だとばかり思っていたのです。小さなカップに入っていると、それを食べるとき、子どもたちは「息を吸いながら」食べようとしてしまいがち。勢いがついて、気道の入り口をスッポリと覆ってしまうのが、事故の原因だと思っていたのでした。
確かにその問題もあり、各社は形状に工夫するようになりました。大きなカップにして、スプーンですくって、小さくしながら食べてもらうように。あるいは、もしもの時にその周りから空気が入りやすいようにハート型にしたり。
それでも事故は起きました。それも大きなお子さんで。なぜ?
市販されているこんにゃく入りゼリーをいくつか買ってみました。そして実際に食べて分かりました。それは、こんにゃく入りゼリーがもつ性質そのものが問題だったのです。
ゼリーが硬くて、とても弾力があります。スプーンでも簡単には切れないほど。大きな固まりのまま口に入れると、歯でしっかりと噛まない限りなかなか切れません。私でも、もし喉の奥に詰まったら、それを自分の力でつぶして飲み込むことはできないでしょう。改めて危険な食品であることを、身をもって経験しました。
こんにゃく入りゼリーのパッケージには、乳幼児や高齢者には食べさせないように、といった注意書きもありますが、それだけでいいのでしょうか。一般には、ゼリーは子どもたちのおやつというイメージがあります。写真で見て分かるとおり、色とりどりで、見た目にも楽しそうで、いかにも子ども用のお菓子といった印象をもってしまいます。
大人の方だけが食べることができるような工夫に、何か妙案でもないかぎり、基本的には販売を禁止することでしか、乳幼児や高齢者を窒息事故から守る方法はありません。
報道ではすでにアメリカやヨーロッパではその危険性が認知され、発売が実質的に禁じられているとのことです。日本では、そのような動きもありません。こんなところにも、行政のあり方に大きな疑問をもってしまいます。麻疹流行の中で露呈している「貧しい政府」が、ここにも問題を投げかけているように思うのです。
「こども通信」6月号をアップしてあります。そこでもこんにゃく入りゼリーの問題を取り上げていますので、ぜひお読み下さい。
投稿者 tsukada : 18:22