2007年06月19日
モラハラとしてのいじめ
先日の「いじめ根絶県民集会」では、いろいろなことを知りましたし、考えることができました。自分も子どもを持つ親ですし、小児科医という立場なのに、何もよく分かっていなかったのだな、とも感じたものでした。
「いじめ」について議論しているのに、肝心の「いじめ」とは何か、その定義があいまいです。「いじめ」という言葉だけが一人歩きしている気配もあります。
学校現場で友人や教師との間でトラブルがあると、何でもかんでも「いじめ」になってしまう。それもヘンなこと。人間が二人いれば意見が分かることは普通のこと。感情もそれぞれが違います。その「食い違い」の全てが「いじめ」であったり、「いじめ」のきっかけや原因になるというのであれば、人は社会生活ができなくなってしまいます。
相手が不快に思うようなら、それが「いじめ」なのだという意見もでました。他者との軋轢(あつれき)があり、それが相手にイヤな感情を与えるものであれば排除すべきだというものです。そう考えると、少し「いじめ」の意味合いが整理されてきます。客観的な観点だけではなく、主観的な観点も加味されるというのは、大切な指摘です。
しかしこれも問題があります。相手がそういったマイナスの感情を持たない行為なら、何をしても「いじめ」にはならないのか、という点です。感じ方も違うでしょう。中には、仲間はずれにされるのがイヤで“好んで”被害者になるものもいるでしょう。もしそれを受け入れなければ、自分へのいじめがますますエスカレートしてしまうかもしれません。
そう考えると、「主観的な観点」が大切だといっても、それだけで「いじめ」を定義づけるわけにもいかなくなります。ある意味で袋小路に入ってしまうかも。言葉だけの「神学論争」(当日の司会者の発言)に陥る可能性もあります。
重要なことは、第一にはどんな行為が行われたかという「客観的事実」をしっかりと把握すること。いつ、誰が、誰に対して、どんな状況で、どんな行為を、どのように行ったか。その具体的な事実をはっきりとさせることです。
虐待が問題になっていますが、それについても同じことが言えます。虐待した者はたいていは「しつけのために行った」と言い訳をしますが、そこで行われた事実のみをきちんと把握すれば、それが虐待であったかどうかは容易に判断できます。
もう一つ重要なことがあります。それはその行為を行っている者に「悪意」があるかどうか、です。もし相手に悪意があり、恣意的に行うのであれば、繰り返し、執拗に行われるでしょう。同じ発言でも、その時の表情は嘲笑を伴っているものです。タイミングも、相手を気遣って行う時と、悪意を持ってする場合には自ずと違ってくるでしょう。
その「悪意」を見抜くことは、容易ではないかもしれません。具体的な事実の正確な把握が不可欠ですし、それを通してのみ判断できるのだと思います。
言葉の上では「わざとじゃない」「ふざけただけ」「そんなに気にするとは思ってみなかった」「軽い気持ちでやった」などと、もっともらしいことを言うかもしれません。でも、表面的な言葉だけで判断できません。やはりその内容が問題です。
時には「いじめ」ではないのに、一見「いじめ」のように見える行為もあるでしょう。友人関係のトラブルは日常的におきるのですから。でも、そこでおきる行為は悪意を持ってはいません。執拗に繰り返されることもないでしょう。相手を深く傷つけていることを知れば、自分の行為を悔やみ、相手に謝罪するでしょう。そして、同じ誤りを繰り返さないように心に誓うものです。
先のフリートークの中では、「いじめ」の定義が参加者の中で合意がないままに進行してしまったように思います。いくつかの場面でそれを感じました。
私が「傍観者」について話をした時もそうでした。いじめを直接行っている者と、それを受けている者のほかに、クラスにはいじめを見て知っている多くの友だちがいます。時には教師も知っている場合もあります。それらの人たちがいじめをなくすために立ち上がらなければ、いつまでたってもいじめはなくならないのではないか。「傍観者」になってしまってはいけない、という趣旨です。
その説明をする中で、昨年電車内で起きた女性暴行事件の話も取り上げました。たった一人の犯人を、列車内にいた数十名の乗客が「傍観者」になってしまい、直接暴力を止めさせるのはおろか、車掌や警察に連絡をすることすら、誰一人としてしようとしませんでした。そのためこの犯人は、同様の犯罪を何度か繰り返し起こしています。もし一番最初の犯罪だけで逮捕され、処罰を受けていれば、その後の犯行はありませんでした。最初の被害者も、心と体の傷は小さくなったことも予想されます(何しろ、同乗していた多数の方からも「見捨てられた」のですから)。
厳しいことを言うようですが、あとに続いた犯罪を未然に防ぐことができなかったという意味合いでは、何もせず「傍観者」になっていた人たちは、間接的な加害者だと言われても仕方ないかもしれません。何もしないことは、たとえその時のその人なりの事情はあるかもしれないけれど、でも「卑怯」なことではないか。
そんな話をしたあと、司会者が「犯罪になるようなことは、いじめではありませんから」と一蹴しました。直接反論はしませんでしたが、気落ちしたのは確かです。
そもそもこの「いじめ根絶県民運動」が行われるきっかけは、いじめを苦にしての自殺が子どもたちの中で問題になったからです。大きな「事件」があり、犯罪として刑罰の対象になるものも、そのいじめの中に含まれているかもしれない、といった認識を持っているのだと思っていました。このあたりは、温度差の違いということなのでしょうか。
その場はそのまま進行されるにまかせていたのですが、やはり「いじめ」の定義に触れておかないことには、本質的な進展がないと思い、あとでもう一度発言をしています。そこでは、「いじめは学校現場におけるモラル・ハラスメント」という考え方を紹介しました。
類似の言葉に「セクシャル・ハラスメント(セクハラ)」や「パワー・ハラスメント(パワハラ)」などがあります。それらは、昔であれば仕方ないことと思われていましたが、現在は少しずつ明確な基準や行動指針ができてきて、こういった行為は問題になるというものができてきています。「ドメスティック・バイオレンス(DV)」もそうです。
「モラル・ハラスメント」という考え方は、それらと共通する面がおおいのですが、さらに大きくて普遍的な人間関係の基本を律するものです。夫婦関係でも友人関係でも、やってはいけない行為があります。とくに悪意をもってなされるものは相手の人間としての人格をおとしめ、時に精神を破壊します。周囲はおろか、自分自身も気づかすにその罠にはまってしまうこともあります。
今起きている「いじめ」の全てが「モラル・ハラスメント」だとは思いません。修復可能な、程度の軽いものが多いからです。今回の県民集会でも、「どんな子もいじめをしてしまうかもしれない」「どんな子もいじめられるかもしれない」と指摘されました。そうであればなおさら、いじめとして問題視される中で、すでに「モラル・ハラスメント」であると見なせる悪質なもの、あるいは今後「モラル・ハラスメント」になってしまいそうな可能性のあるものを見抜くことが必要になってきます。
いじめのすべてをなくすことはできないかもしれない。それは、人間関係のトラブルはなくならないのだから。あるいは、子どもたちの全てのことを見ていることなど、教師にも親にもできないのだから、といった意見も聞こえてきます。そう思うのであればなおさら、いじめの中でも「悪質なもの」とそうではないものを、しっかりと見分ける目を、大人たちが養う必要あります。もちろん、前者に対しては強力に介入し、早期に対処する必要があり、その手だてを備えることも、また大切なことです。
そんな意味合いで「モラル・ハラスメント」の考え方をお話ししたのですが、どうもこれが上滑りしていたようです。司会者も進行に関係ないことと思ったのかもしれません。確かに、事前の打ち合わせではこの点について私が触れるとは言っていなかったわけですし、そもそもこの用語そのものもなじみのない方が大半だったでしょうから。
でも、この考え方はとても大切です(私はそう思っています)。あの場で多少触れることができ、それがきっかけで「いじめ根絶」への考え方や取り組み方が飛躍するといいな、と願っています。
教育の分野はもちろん、さらに家庭内のこと、仕事上のこと、社会生活の中でのこと、あらゆる場面で重要なこととして次第にとりあげられていくものだと思います。皆さんもぜひ考えてみてください。
投稿者 tsukada : 2007年06月19日 22:54