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2010年08月27日

刑場公開と死刑議論

 今日は嫌悪感と腹立たしさがときどきこみ上げてくる1日でした。死刑を執行する「刑場」を法務省がマスコミに初めて公開し、そのニュースが流れているからです。

 日本には死刑制度があり、絞首によって執行されています。それは刑法で決められていて、その法律を作ったのは国会です。現在の法務大臣(先の選挙で落選したので「元国会議員」)が死刑廃止論者であり、国民の中で死刑について議論を深めてもらいたい、というのが今回の「情報公開」にいたった理由だそうです。

 でもそれは議論のすり替えではないのか、と思います。死刑制度そのものの是非を議論することを、その方法が人道的かどうかを論じることとは次元が違うはずです(「人道的で、人に優しい死刑」などというものはもともと存在しないでしょうが)。

 ましてやこれが裁判員裁判をみすえての公開であり、死刑について裁判員が重く考えるきっかけになればいい、などとするのは、はなはだ見当違いです。

 職業として裁判に関わる裁判官と違い、裁判員は全くの素人であり、民間人です。罪を犯した人を裁くことに対して、それを負担に思う気持ちはとても大きく、ときに精神の変調をきたすこともありうるのではないかと思います。

 罪の重さが、法律に定める最高のものに値すると考えたとき、法律に従えばそれは死刑になります。そして、絞首刑に処せられることになります。

 しかし、絞首刑は避けたいと思うとき、死刑を科さない選択をすることになります。一方で、刑の重さを減じるわけですから、最高刑には値いしないのだという合理的な判断が必要なはずです。

 裁判員裁判では刑の重さも裁判員が加わって決めなくてはいけません。具体的な犯罪事実にもとずいて裁くということの他に、死刑制度の是非まで議論せよ、というのは、あまりに過酷なことなのではないでしょうか。

 判例にしばられず自由に議論し、刑を決めていい・・裁判員裁判はそんな制度だなのかもしれません。でもそれは無責任になっていいわけではありません。これまでの裁判の判例、日本の今の秩序など、総合的に考えてあまりにかけ離れた物差しで決めてしまうわけにはいかないでしょう。それなりの整合性が求められるはずです。

 死刑制度に反対だから死刑にはしない、どんな罪を犯しても最高刑は科さない・・そんなふうに考えることが、裁判員裁判の議論の中で認められることなのか、疑問です。

 裁判員になった人たち(選ばれる対象は私たち全国民)に、刑場の公開を通じて死刑制度存廃の議論をおこす起爆剤になってくれることを期待してようですが・・裁判員を人質にとって、死刑を回避させよう、あわよくば死刑廃止の機運が高まってくれればいい、そんなふうにもくろんでいるように見えます。

 今回の刑場公開が、なんだか卑怯(ひきょう)なやり方に思えてきました。それが、私の気分を一日中悪くしているのだと、気づいたところです。

投稿者 tsukada : 2010年08月27日 23:04